2007/11/29 (Thu) 22:39
HIROSHIMA MON AMOUR 続ヒヒョウ

先日…といっても数週間前に、ゼミでこの作品についてのディスカッションがあったので、追記します。

作品は、戦後10余年経った日本は広島を舞台に、ヌベールという、戦争で恋人を亡くし、ドイツ人と恋をしたことによって非国民とされた過去を持つフランス人女性と、ヒロシマという日本人男性の情事の物語。

記憶の忘却

主人公の女性は、戦時恋人を亡くし、またその恋人がドイツ人であったことから、非国民とされ、地下室に数年間閉じ込められたという一種のトラウマともいえる経験をしている。作品中で、この過去について初めて人に(ヒロシマに)話すシーンが出てくる。ここで彼女は、ヒロシマという男を鏡として「あなた」と呼ぶことによって、過去の恋人に面している。そして、話してしまったことについて、「忘却の始まりだわ」と嘆いている。
感覚的な理解ではあるが、人は自分の強い感情を伴った経験については、話すことによって消化し、昇華させていくという性質が少なからずあると思う。この女性、ヌベールの嘆きは、自分にとってとても大きな過去を話してしまうことによって昇華してしまうのではないか、という懸念が伺われる。
映画は、男女が裸で絡み合うシーンから始まっているが、その初めの部分では、男女の肌がやけただれた肌として映し出される。作品中では、ほとんどといっていいほどに出てこない広島がここに存在する。
監督アラン・レネは、「戦争はいけない」「二度とあのような惨事を繰り返してはならない」と語っている未来の私たち日本人に対して、戦争は悪い、間違ったもの、二度と起こしてはならないものと昇華し、戦争の本質を見ようとしなくなっているのではないか?と投げかけているのでは?と思われた。

知ることとわかること

このことに、何の違いがあるのだろうか?
作品の冒頭部分で、ヌベールとヒロシマの延々と繰り返される「私は広島をしっている」「いや、君は知らない」のやり取りは知ることとわかることは違うということを示唆しているのではないか、という議論が出た。
議論の中で、K先生が記憶の忘却の中でも記述した冒頭部分の女性と男性のやけただれた肌について「女性と男性は、いくら体を重ね合わせても、どうしても分かり合えない存在だ」と述べていた。私は、そこまで深い恋愛をしたことはないが(笑)、究極のところは人は理解しあえない部分があると思っている。
監督は、これを悲観的に描きたかったわけではないだろう。映画の結末からしてみても、人はそのような存在でありながらも、わかろうと努める、そういうことを描きたかったのではないのだろうか。

とまぁ、こういう結論になりましたが、深い恋愛でもしたら、もっと分かるのかなぁって思いました。
やっぱり、難解!

2007/11/07 (Wed) 02:02
HIROSHIMA MON AMOUR

続いて、本日見た映画!!

「HIROSHIMA MON AMOUR」

アラン・レネ監督作品です。
HIROSHIMA MON AMOUR


邦題「24時間の情事」と、なんともエロいですね(笑)
というより、なんでそうなるんだ!!というか。

内容は、ドイツ人の恋人を第二次大戦中に亡くしたフランス人女性が日本人男性と広島の地で恋をする話なんですが、なかなかにどろどろしております。

というのも、このフランス人がドイツ人と恋をしたことによって非国民とされ、家族に地下室へ閉じ込められる、という経験があり、それを忘れ去って生きようとして14年経ったとき、この日本人男性に恋をしてしまい、忘却していた愛を思い出してしまう、というストーリーだからです。

一種のトラウマについての映画として、様々なところで取り上げられている映画であるようです。

私は、この作品を授業の中で原爆被害の記憶というテーマにおいて見ました。

作品中では、原爆の投下された街、広島について特に作品の冒頭部分でふれられています。
しかし、ほとんどは女性と男性の恋の話です。

これが、どう広島の原爆の記憶と関係するのか…。
なぜ広島が舞台に選ばれたのか…。
見終わった後、「?」の多い映画でした。

何の前置きもなく、見ていたら、恋のトラウマの物語として見ていたと思います。

これを、原爆被害の記憶、トラウマという観点から、解釈をしようと試みてみたいと思います。

まず、原爆被害の記憶という点において。

舞台が広島で、映画の始めの部分では、

女 "私は、広島を見て、原爆の博物館を見て、広島を理解するわ"
男 "Non, tu ne sais pas(いや、君はわからない)"

というやりとりが数回にわたり、あります。(全部仏語)

ここは、女が理解していると認識していることは、本当には広島を理解していないということを示し、それを認識してほしい、という制作者の意図があるのではないかと感じました。

原爆の資料館を見ることによって、あれは悲惨だった、もう二度とあのようなことが起こってははらないと見る人が感じても、本当に被害にあった人々の気持ちや経験を共有することは出来ないという部分にシンクロする部分であると思います。

トラウマについて。

作品中では、男女が話をしていく中で、女性の過去が少しずつ明らかになってきます。

ドイツ人と恋をして非国民と扱われ、地下室で数年すごし、狂ってしまいそうな状況から脱するためにとった選択は、その恋を忘却したと思うこと。
その自分をしまっておくこと。
しかし、日本人男性と広島で出会い、だんだんと話をして、過去の話もしていくうちに、どこかにしまっていた自分が現れる。
忘却していたのではなく、どこかにしまっていただけであるということを認識する。

そして、もう忘却していた自分には戻れない。

人は、つらすぎて、しまっておくということをしなければ生きてゆけない事柄をトラウマにするのではないか、と思います。

わたしもきっと、トラウマを持っています。
小さいときの記憶はありません。
ただ、覚えていないだけかもしれないし、そうであるといいのですが、トラウマな気がします。

これについて、来週の今日ディスカッションが行われます。
さて、何をディスカッションするんでしょ?

トラウマは、ひきだされるべきか否か?
それとも、トラウマとどうつきあっていくか?

まぁ、来週を楽しみにします。

最後に、印象に残ったシーンについて書きたいと思います。

作品中で、女性はフランスに帰るという設定になっており、しかし、その男性に恋をしてしまったから、残りたいが、残れないという状況です。

そこで、お互いにもう逢うことはないだろう…というシーンで、
もし再び逢うことがあるなら、それは戦争が起きたときに愛の忘却が目覚めるでしょうというようなセリフがありました。

戦争の社会的機能としては、政治的解決手段、軍事ビジネスを成り立たせるものと、私は解釈しています。

しかし、彼らにとっては、愛の忘却を目覚めさせるもの。

再び起こる戦争は、戦争体験者にとっては、トラウマを目覚めさせるものでありうるんですね。

社会にとっての戦争と個人にとっての戦争。
そのギャップ。

これが世論と政治のギャップに繋がっているのでしょうか。

いやはや、難解。

2007/11/07 (Wed) 00:51
神の子たち

久々に更新いたします。

今回は、四ノ宮浩監督の「神の子たち」についてです。
昨晩友人宅で見ました。

この作品は、フィリピンのマニラ市にあるスモーキーマウンテン閉鎖後、第二のスモーキーマウンテンと呼ばれるようになった「パヤタスゴミ捨て場」のドキュメンタリーフィルムです。この作品中ではパヤタスゴミ捨て場で崩落事故が起きた2001年7月、その危険性から政府が4ヶ月間ゴミ捨て場を閉鎖した時期に撮影されています。その数日後の自然発火による火事も映されていました。
このように、積み上げられたゴミ山が自然発火することから「スモーキーマウンテン」と呼ばれるようになったといいます。

作品中には、そのパヤタスゴミ捨て場近辺でゴミを収集して生活しているスカベンジャー(ゴミを拾って生活する人々)3家族が出てきます。

妊娠中のノーラ(27歳)とその夫、娘の3人家族。両親と4人の家族で生活しているニーニャ(12歳)の一家。そして、水頭症で寝たきりのアレックス(5歳)とその両親、2人の妹の一家です。

フィリピンには、私は去年2006年の夏にレイテ島を訪れたことがありました。そして、スモーキーマウンテンについても、以前講義で学んだことがありました。

しかし、実際に映像で見ると持っていたイメージが変わりました。

映像を見るまでは、生活に苦しい人々がしかたなくゴミ捨て場で生計を立てている、というイメージを持っていたのですが、映像を見て、その人たちにとってのゴミ捨て場は私たちが生活している場所となんら変わりのない位置づけであるのではないか、と感じました。

確かに、生活環境はよくなく、幼児の死亡率は30%、水頭病という障害を持った子供が多いということも、この映像の中で知りました。しかし、ゴミ捨て場がひとつのコミュニティとして、生活の場として成り立っている。
村で生活していた人々が、働く場を求めて、この場所を選ぶ。
ここでは、一日に約200ペソの収入が得られるといいます。
日本円にすると、現在だいたい520円くらいです。

日本人の物価の感覚でいうと、生活出来ない!って感じですが、向こうは物価が違います。
分かりやすい例でいうと、菓子パンが6ペソって感じです。
だから、520円あったら食事は出来るなって思います。

そして、そのゴミ捨て場で彼らが拾っているのは、ペットボトルなどのリサイクル資源です。
そう考えると、単純に衛生的に悪いし、いくら仕事がないからって、一方的によくない、とは言い切れないんじゃないかって思いました。

でも、そのような生活環境はよいとは言えないわけで、なぜごみ捨て場で人々が生活するようになったのだろう?っていう疑問が出てきます。

これについて友人が解説してくれました。
まず人々がそこに集まった理由は、村では地主が権力を持っており、そこで雇われていた人々には苦しい生活で、また、地主に解雇されてしまったら仕事がない。
そこで、都市に集まり、職を探すが、皆が集まるため、職はなく、ゴミ捨て場で生計を立てるというシステムが出来上がった。
ここで、では国はなぜそれに対して何もしないのか?という疑問が出てきますが、
フィリピンは終戦後、自国の経済発展を推し進めていくためには、そのような問題に対して金銭や政策を立てるといった余裕がなかったということです。
(簡単に述べすぎですが…)

この映画は、このような場所でも誇りを持って家族との繋がりや愛をもちながら生活している人々がいるということを感じてほしいという思いでつくられたようです。

ただ、私はゴミ捨て場で起きた崩落事故により、たくさんの人々が死ぬ姿を見ると、なんとかせねば!と思ってしまいます。

家族の愛や繋がりっていうのをあまり感じないのは、自分の経験から来るものなのでしょうかね。
友人は、そこにこの映画を見た意味があったというのを聞いて、思いました。

なんて、散漫で長い、そして久しぶりなのにあまり批評でないヒビコレヒヒョウでした…(笑)

| ホーム |

 BLOG TOP