2008/06/14 (Sat) 21:25
パレード

パレード


吉田修一さんの小説です。

途中で携帯が鳴って返信とかしたけど、それに全然遮られることなく、没頭して呼んでしまった作品。
彼の作品では、「パークライフ」を読んだことがある気がします。

まず、買う前に持っていたイメージと作品の中味が全然違った。
買う前に、友人の感想とブックカバーについている解説を読んだんですが。
人によって受け取り方が違うということなんでしょうか。

さて、どんな話かというと、東京都内の2LDKに共同生活をする5人の話。
この5人は、恋人どうしでも、血縁でも、直接繋がりがあったわけでもないですが、共同生活をしています。
それが、それぞれの視点から5章にわたって話が展開していくというもの。

この小説について何か書こうとすると、どうしても遠まわしに書きたくなります。
これは、こういうことについて描き出しているんだー!というとするっと、手からすり抜けていってしまうような感じです。

だから、私が小説から受けた印象を書きます。

人って、ルービックキューブみたいなんじゃないのかと。
ルービックキューブは、買ったとき前面が各色きれいにそろってて、それをかちゃかちゃして、で、また各面色をそろえるっていうものですが。
このそろっているときのルービックキューブもあれば、色がバラバラのときもあれば、といったような。
このキューブの6面をカチャカチャして、人に見せている。
そんな感じでした。

この小説の好きなところは、登場人物のふと言うこと、とかふと考えること。
思わずしおりをはさんだ箇所は

―説明するのが簡単な関係なんて、あってもなくてもいいようなもの

というとこです。
また数年後読んだら、きっと違うことを思うのだろうな、ということで手元に置いておきたい一冊になりました。
あ、ルンルンな気分のときに読むのはおすすめしません(笑)

にしても、小説ってすごいなーとつくづく感じました。

テーマ : ★★おすすめ♪★★ - ジャンル : ブログ

2007/12/25 (Tue) 09:20
国家貿易

12月24日、日テレの「NEWS ZERO」で桜井翔さんがうけもってられるコーナーで、昨日は「国家貿易」について、やっていました。

小麦が今年は不作で、また小麦を使った製品の値段が上がるでしょう。
というのの、解説の中に「国家貿易」というのが、出てきました。

国家貿易は、ある輸入物を国家が買い取ってから、消費者に流通するというもの。
こうすることによって、国内のその輸入物生産者を保護する、ということです。

例えば、小麦は、国家が買い取って少し高い値段で消費者に売って、その余剰は国内小麦生産者の保護に充てられています。

勉強になりました。

そして、このニュース見ながら、ふとニュースについて考えました。

この「NEWS ZERO」は深夜11時くらいからやっている番組で、「今日の出来事」という番組終了とともに始まりました。
全体的に、POPなビジュアルにして、日本のニュース番組は、基本メインキャスターとサブ、そして、コメンテイターという形をとっているのですが、それを改革して、メインキャスター7名という形で番組は進行されます。

この試みの意図は、「もっとニュースを身近に、わかりやすく」であると私なりに解釈しています。

今日見た桜井翔さんのコーナーでは、小麦の危機を伝えるために、桜井さんが以前番組の取材でオーストラリアに行かれた際の映像として、オーストラリアの小麦農家の方のコメントがありました。
オーストラリアは、世界第3位の小麦生産国ということで、桜井さんが、その小麦農家の方に連絡をとったところ、大変厳しいとコメントしていたということです。

ここで、疑問に思ったのが、なぜオーストラリアの例を挙げるのか。
小麦生産第1位は、米国です。
米国の現状を取り上げるのが、小麦の危機を、より伝えられるのでは?
と思うのですが…。

オーストラリアの方のコメントを取り上げたのは、VTR素材が既にあったのと、桜井翔さんが連絡を直接とれる小麦農家の方がいるという理由で、小麦農家の方に連絡を取り、そのコメントを伝えることによって、深刻さを伝えるという理由であったとは思います。
速報性と映像の使用が特徴であるテレビニュースは、そのときにある情報と素材でニュースを作り上げなければならない、という側面があります。

ただ、疑問に思うのです。

「NEWS ZERO」自体の、使用グラフィックのPOPさやニュースの新しいキャスター体制の導入は、番組の意図を実行できているように思います。
が、ひとつひとつのニュースの構成までも、視聴者が知りたいと思うところではなく、身近さを重視してしまっては、いけねいのではないか…とふと批評じみたことを思ってしまいました。

2007/11/29 (Thu) 22:39
HIROSHIMA MON AMOUR 続ヒヒョウ

先日…といっても数週間前に、ゼミでこの作品についてのディスカッションがあったので、追記します。

作品は、戦後10余年経った日本は広島を舞台に、ヌベールという、戦争で恋人を亡くし、ドイツ人と恋をしたことによって非国民とされた過去を持つフランス人女性と、ヒロシマという日本人男性の情事の物語。

記憶の忘却

主人公の女性は、戦時恋人を亡くし、またその恋人がドイツ人であったことから、非国民とされ、地下室に数年間閉じ込められたという一種のトラウマともいえる経験をしている。作品中で、この過去について初めて人に(ヒロシマに)話すシーンが出てくる。ここで彼女は、ヒロシマという男を鏡として「あなた」と呼ぶことによって、過去の恋人に面している。そして、話してしまったことについて、「忘却の始まりだわ」と嘆いている。
感覚的な理解ではあるが、人は自分の強い感情を伴った経験については、話すことによって消化し、昇華させていくという性質が少なからずあると思う。この女性、ヌベールの嘆きは、自分にとってとても大きな過去を話してしまうことによって昇華してしまうのではないか、という懸念が伺われる。
映画は、男女が裸で絡み合うシーンから始まっているが、その初めの部分では、男女の肌がやけただれた肌として映し出される。作品中では、ほとんどといっていいほどに出てこない広島がここに存在する。
監督アラン・レネは、「戦争はいけない」「二度とあのような惨事を繰り返してはならない」と語っている未来の私たち日本人に対して、戦争は悪い、間違ったもの、二度と起こしてはならないものと昇華し、戦争の本質を見ようとしなくなっているのではないか?と投げかけているのでは?と思われた。

知ることとわかること

このことに、何の違いがあるのだろうか?
作品の冒頭部分で、ヌベールとヒロシマの延々と繰り返される「私は広島をしっている」「いや、君は知らない」のやり取りは知ることとわかることは違うということを示唆しているのではないか、という議論が出た。
議論の中で、K先生が記憶の忘却の中でも記述した冒頭部分の女性と男性のやけただれた肌について「女性と男性は、いくら体を重ね合わせても、どうしても分かり合えない存在だ」と述べていた。私は、そこまで深い恋愛をしたことはないが(笑)、究極のところは人は理解しあえない部分があると思っている。
監督は、これを悲観的に描きたかったわけではないだろう。映画の結末からしてみても、人はそのような存在でありながらも、わかろうと努める、そういうことを描きたかったのではないのだろうか。

とまぁ、こういう結論になりましたが、深い恋愛でもしたら、もっと分かるのかなぁって思いました。
やっぱり、難解!

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